千土地興業について

  • 虎八
  • 2015/07/01 (Wed) 13:30:38
 昔、40数年前に火災を出した、千日デパートビルの
 中に千日劇場と云う演芸場があり、
 その前は大阪歌舞伎座だったのですね?
 
 この興行や建物を運営したいたのが千土地興業と云う会社
 だったのですね?
 近鉄あやめ池のドリームランドの運営やそこで公演される
 SKD等もこの会社が運営していたのですか?
 親会社は松竹で 戦前に吉本の芸人を引き抜いた事や
 戦後吉本が演芸から手を引いた時に、戎橋松竹を設立した
 のも関係しており、松竹芸能を創った勝忠男氏も元々千土地の
 社員で戎橋松竹の勤務を経て、懇意だった所属の芸人を連れ、
 独立し、
 宝塚新芸座から離れた秋田実氏率いる芸人が合わさり、
 松竹芸能が設立されるのですね? 
 唯退社独立しても大元の松竹の看板は使わせて
 貰ったのですね?
 
 そして、ケーエープロダクションは松竹芸能より秋田実氏と
 その秋田派の社員 芸人が独立設立されるのですね?
 
 井川企画(唄子啓介等) 
 娯楽観光等は千日劇場が閉鎖されその
 社員が所属芸人を連れマネージメントをされたのが
 始まりなんですね?

 「千土地は歌舞伎やレビューに力を入れ、
 演芸を軽視していたので、戦後遅れる形で演芸を再開した
 吉本に芸人が流れ、閉鎖という形に成った」と
 先代文枝師が著書で述べられておられました
 この辺りの事を教えて戴きたいと思います


 

Re: 千土地興業について

  • 植松
  • 2015/07/01 (Wed) 13:47:41
日本ドリーム観光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E8%A6%B3%E5%85%89

この記述は歌舞伎関連も含めて、よく書けていると思います。

松尾国三社長没後の昭和60年代に、
未亡人と経営陣のお家騒動が起こったことは
私も記憶しています。

松尾未亡人が舞台から挨拶したのもナマで見ています。
去年、歌舞伎俳優の市川右近さんとその時の逸話で盛り上がりました。

要するに 松竹の双子の兄弟 大谷竹次郎 白井松次郎

白井松次郎が関西、大谷竹次郎が東京を仕切っていたのが
昭和26年に白井松次郎が亡くなったことが、
いろんな影響を与えました。
白井松次郎葬儀に参列して風邪をこじらせて二代目実川延若が亡くなり、
関西歌舞伎がおかしくなり、二代目中村鴈治郎の歌舞伎役者廃業宣言に至ります。

九州出身の興行師・松尾国三が社長になるのが
昭和29年です。

千土地は歌舞伎やレビューに力を入れ・・・は昭和20年代のことで、
昭和33年開場の大阪新歌舞伎座は、歌舞伎公演が少ない「新歌舞伎座」となりました。

大谷竹次郎は昭和44年まで存命でした。
白井松次郎があと10年長生きしていたら、
関西歌舞伎や演芸も変わっていたでしょう。

六代目松鶴は、松鶴襲名に際して 千土地興業から松竹芸能に移籍していますね。
米朝の三木助襲名も同条件であった由。

さよなら角座の番組で 六代目松鶴が「角座の開場のときは別の会社でした」と
話していました。

Re: 千土地興業について

  • 酒本
  • 2015/07/01 (Wed) 22:11:13
千土地の歌舞地下から千日劇場が開場するまでのワンポイント的役割だった、昭和33年5月から昭和34年1月までの新京極京洛劇場。
六代目は笑福亭枝鶴で出てる。
桂米朝、桂小文枝、先代林家染丸も出てる。
三代目の名前はないけど、弟子の小春(伯伝)は前座で出演。

角座は開場時の専属噺家が三代目だけだったように思います。

Re: 千土地興業について

  • 酒本
  • 2015/07/02 (Thu) 20:06:59
千日劇場のパンフです。
何時の頃でしょうか?
トップに若手落語として若手の噺家が一回目のみ出演してるようです、
小米→枝雀
染蔵→すぐに染三と改名する。
扇生→東京の三遊亭百生(先代梅團治)の大阪の弟子。後の笑鬼会の乙田東洋司さん。

光晴ひな子でコンビを組んでますから昭和35年10月以降かと思う。
(投稿前に、内容をプレビューして確認できます)