桂米之助師について

  • 虎八
  • 2015/05/27 (Wed) 06:38:52
 桂米之助師 この方は先代米團治師の門下で
 米朝師の兄弟子に当たる方ですが、

 交通局勤務との兼業で活動されたのですか?
 
 今から20年ほど前に読売新聞が主催する「上方落語入門」と
 云う講座で「子誉め」「つる」「煮売屋」の稽古と
 上方文化の講義をされ、味わい深いものがありました

 又、話し方も派手さはないが淡々として昔話を聞いている様な感じでした
 晩年に神戸のもとまち恋雅亭で「卯の日詣り」「兵庫船」等を聞きました

 米朝一門始めこの方に稽古を付けて貰った方は多く、
 自宅のある東大阪で「岩田寄席」を主催されて居られたと云う
 話を聞きました

 米之助師についてこの辺りの事を教えて戴ければと思います

Re: 桂米之助師について

  • 酒本
  • 2015/05/27 (Wed) 08:24:27
本名・矢倉悦夫ですから仲間からは「悦ちゃん」後輩は「悦ちゃん師匠」と呼ばれてました。

親元は劇場を経営してたらしく結構裕福なお家だったようで、戦前から五代目松鶴主宰の「落語荘」の落語会に通ってた、現在の落語ファンの草分けみたいな人だったんですね。
戦後、上方落語が滅びかけていた頃、何とか若手の噺家を作らなあかんと、当時はまだ五代目のマネージャー的な事をしてた六代目松鶴が声をかけて引っ張ったんですね。「お前がやるならわしもやる」という事で六代目もその時点で噺家になったようです。

もちろん生活の為に交通局の務めは続けながら、そして同じ職場に居てた先代文枝さんが踊りの稽古がしたいという事を相談されて、四代目文枝を紹介したのが縁で、先代文枝さんも噺家に引っ張り込んだんですね。

交通局は辞めて本職になるつもりだったそうですが、家族の反対があって、そのまま定年まで勤める事になったわけです。
今ほど公務員が他の仕事をする事が禁止されていなかったのか、落語会には出演されてました。

米之助さんの無料パスで市電によく仲間が乗せてもらったようです。
宝塚落語会を経て、協会設立時のメンバーでしたし、初期の頃は京都市民寄席にも出てました。講談の先代南陵師とは歳は離れてましたが兄弟分みたいな間柄で、南陵主催の講談会「徳川家康をののしる会」にはレギュラーで出演してました。現・南陵の小南陵襲名の時は口上で四天王と一緒に出演し、口上の司会を務めました。

本格的に表に出だしたのはやはり定年になった後ですね。それまでは、やはり公にはあまり出演できなかったようです。

東大阪で「岩田寄席」は地域寄席の草分けでメンバーは当時の四天王の弟子をまんべんなくチョイスしてレギュラーにしてました。松葉(七代目松鶴追贈)、べかこ(南光)、春若、米輔、米太郎(故人)、文福という人たちです。この会に出演してない若手はいないというほどすべての新人噺家は出演させています。前座でさんまの出演もありました。

噺をきっちり古風にそのまま伝えていたので、稽古台として四天王は弟子を稽古に行かせていました。
「東の旅(発端)」「播州巡り」「兵庫船」など「上方はなし」に載ってるそのままに覚えていました。一般人対象に「落語教室」も開いていて結構教えを受けてる人は多く、吉朝さんはそこの出身らしいです。

「江戸荒物」「首の仕替え」「鷺とり」「赤子茶屋」「卯の日詣り」などはこの人によって後世に引き継がれたと言って過言ではありません。

米朝師匠によると、若い頃は師匠の息を一番受け継いでいたという事で、米之助師で四代目米団治の芸風をうかがえるようです。

博学で大阪風俗史など、膨大な資料の中から即座に検索できた人で「解らん事は悦ちゃんに聞け」と米朝師匠もおっしゃています。

私は聞く機会が少ないにもかかわらず結構聞いた方で「卯の日詣り」「饅頭怖い」「日和違い」「桜ノ宮」「猫の忠信」「くっしゃみ講釈」「ぞろぞろ」「仔猫」「花筏」「近日息子」「播州巡り」「兵庫船」「軽業」を聞きました。

以前「探偵ナイトスクープ」で「ちょろけんとは何か」という依頼で米之助師の所へ取材に行った時はちょっとびっくりしました。構成作家が亡くなった日沢さんだから米之助師という取材対象を思いついたんでしょうね。

Re: 桂米之助師について

  • 虎八
  • 2015/05/28 (Thu) 06:41:04
 詳しい御話有難うございます

 昔、読売主催の「上方落語入門」と云う講座で
 先代米團治師の速記記録の「つる」を見せて戴いたり
 又何かの機会に五代目松鶴師の「上方はなし」をお見せします
 (翌年第二期開催予定が米之助師が入院その数年後にお亡くなりになられました )と云われたり、
昔の大阪の暮らし、言葉、等についての講演もされました
 戦前終戦後の資料なども
お持ちで、後世に噺だけでなく文化等も伝えられ、四天王の門弟にも大きな足跡を残された方なのですね?

Re: 桂米之助師について

  • 虎八
  • 2015/05/28 (Thu) 06:49:12
 表舞台にはあまり出られませんでしたが、
 米朝一門の襲名披露の口上等(ざこば 南光等)
 には先代米紫師と同じく出ておられましたですね?

 又松葉(贈七代目松鶴)追善興行の時にも、
 口上に並んだり、インタビューは受けておられましたですね?

 相羽秋夫氏は米之助師と先述の米紫師は
 表には余りでないが上方落語に於いてこのお二方は
 貴重な存在であると評されておられました。

Re: 桂米之助師について

  • 酒本
  • 2015/05/28 (Thu) 13:06:55
米治郎師匠はうちの会に晩年、昭和56年から平成9年までよく出演してもらいました。
廃業して20年ぐらい経ってからですから、廃業した時点で当時のままお客に対する感覚はストップしてましたね。

持ちネタは「ちしゃ医者」「からし医者」「始末の極意」「北国根問(鉄砲勇助の北国の件を独立した噺)」「書割盗人」「口合根問」「へっつい盗人」「みかんや」「始末の極意」「浮世根問」などでした。内容は忘れましたが怪談特集として「恨みの五十両」「按摩の笛」とか殆ど米治郎師匠のでっち上げの話でしたが怪談をしてました。
「口合根問」はほんまに古風すぎて、解説してもらわな分からん口合いをそのまま演じておられ、お客は殆ど理解できなかったようです。「ランプのホヤがあるわ」「ホヤ聞こえませぬ伝兵衛さん」(これはまだ解る方ですが)こんなんが連続でした。

珍芸として絵噺の植木屋で最後に顔になって「買オ」踊りは「奴さんの姉さん」珍しいところでは下座に「梅にも春」を弾かせて何やら包みを広げていって、最後に饅頭が出てきてそれをほうばって、「濃い茶が出来たらあがりゃんせ」と歌い尻でお茶飲むという不思議な芸も見ました。

昭和30年代後半には廃業して東映で絵を描いてはったそうです。(はっきりした職種は知りませんが)勤めをリタイヤした後はうちの会のような特殊な会に、時たま晩年まで出てはったので、米朝事務所の系図には名前が載ってるわけです。

師匠米団治から習ったネタは何ですかと聞いたら「明晩丁稚だけや」とおっしゃってました。

「かきわり」は米治郎師匠から先代米紫さんへそして先代歌之助さんへ流れてますし。晩年に吉朝、む雀、勢朝という人らこの噺を直接習ってます。

芸風としては、初代桂春団治のSPレコードを参考にしてはる感じでした。「ちしゃ医者」「からし医者」などがそうでしたね。
「毎度ばかばかしいお笑い草を申し上げます」とか「表からトンマ人を独り引っ張り込みます」とか大時代の入り方してましたね。

平成19年6月26日83歳で亡くなりました。米朝、米之助よりずっと年上でしたが四代目米団治門下の末弟だったんです。
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