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本名・矢倉悦夫ですから仲間からは「悦ちゃん」後輩は「悦ちゃん師匠」と呼ばれてました。
親元は劇場を経営してたらしく結構裕福なお家だったようで、戦前から五代目松鶴主宰の「落語荘」の落語会に通ってた、現在の落語ファンの草分けみたいな人だったんですね。
戦後、上方落語が滅びかけていた頃、何とか若手の噺家を作らなあかんと、当時はまだ五代目のマネージャー的な事をしてた六代目松鶴が声をかけて引っ張ったんですね。「お前がやるならわしもやる」という事で六代目もその時点で噺家になったようです。
もちろん生活の為に交通局の務めは続けながら、そして同じ職場に居てた先代文枝さんが踊りの稽古がしたいという事を相談されて、四代目文枝を紹介したのが縁で、先代文枝さんも噺家に引っ張り込んだんですね。
交通局は辞めて本職になるつもりだったそうですが、家族の反対があって、そのまま定年まで勤める事になったわけです。
今ほど公務員が他の仕事をする事が禁止されていなかったのか、落語会には出演されてました。
米之助さんの無料パスで市電によく仲間が乗せてもらったようです。
宝塚落語会を経て、協会設立時のメンバーでしたし、初期の頃は京都市民寄席にも出てました。講談の先代南陵師とは歳は離れてましたが兄弟分みたいな間柄で、南陵主催の講談会「徳川家康をののしる会」にはレギュラーで出演してました。現・南陵の小南陵襲名の時は口上で四天王と一緒に出演し、口上の司会を務めました。
本格的に表に出だしたのはやはり定年になった後ですね。それまでは、やはり公にはあまり出演できなかったようです。
東大阪で「岩田寄席」は地域寄席の草分けでメンバーは当時の四天王の弟子をまんべんなくチョイスしてレギュラーにしてました。松葉(七代目松鶴追贈)、べかこ(南光)、春若、米輔、米太郎(故人)、文福という人たちです。この会に出演してない若手はいないというほどすべての新人噺家は出演させています。前座でさんまの出演もありました。
噺をきっちり古風にそのまま伝えていたので、稽古台として四天王は弟子を稽古に行かせていました。
「東の旅(発端)」「播州巡り」「兵庫船」など「上方はなし」に載ってるそのままに覚えていました。一般人対象に「落語教室」も開いていて結構教えを受けてる人は多く、吉朝さんはそこの出身らしいです。
「江戸荒物」「首の仕替え」「鷺とり」「赤子茶屋」「卯の日詣り」などはこの人によって後世に引き継がれたと言って過言ではありません。
米朝師匠によると、若い頃は師匠の息を一番受け継いでいたという事で、米之助師で四代目米団治の芸風をうかがえるようです。
博学で大阪風俗史など、膨大な資料の中から即座に検索できた人で「解らん事は悦ちゃんに聞け」と米朝師匠もおっしゃています。
私は聞く機会が少ないにもかかわらず結構聞いた方で「卯の日詣り」「饅頭怖い」「日和違い」「桜ノ宮」「猫の忠信」「くっしゃみ講釈」「ぞろぞろ」「仔猫」「花筏」「近日息子」「播州巡り」「兵庫船」「軽業」を聞きました。
以前「探偵ナイトスクープ」で「ちょろけんとは何か」という依頼で米之助師の所へ取材に行った時はちょっとびっくりしました。構成作家が亡くなった日沢さんだから米之助師という取材対象を思いついたんでしょうね。